三井歯科医院の院長として、私は今も毎年複数の講習会に参加し、“安全で確かな治療”を提供するために学び続けています。

歯科医療の技術は10年単位で大きく変わります。
だからこそ、口腔外科・インプラント・義歯・矯正、小児矯正……
必要な領域はすべて勉強し直すつもりで、同じ講師の講習会を「納得するまで再受講」することも少なくありません。

患者さんの大切な1本を守るために、私自身が歩みを止めないことを信念としています。

三井歯科医院 院長
萩原 寛司

略歴

経歴・学歴
桐光学園高等学校 卒業
明海大学歯学部 卒業
明海大学 口腔外科第一講座 勤務(6年間)
(この期間中に埼玉医科大学 麻酔科にて1年間研修)
退職後、諸先輩方のもとで臨床指導を受ける
【受講講習会】インプラント・義歯・矯正・小児矯正等
医療法人社団翔栄会 歯科羽倉医院 勤務
平成13年 三井歯科医院開設 院長就任

学術実績

学会発表

発表日タイトル学会
1992.11同胞に見られた鎖骨頭蓋異骨症第38回日本口腔外科学会総会(横浜)
1993.05含歯性嚢胞の臨床的検討〜特に摘出後創処理の違いによる比較〜第47回日本口腔科学会総会(弘前)
1993.12両側下顎第一大臼歯直下に認められた埋伏過剰歯の一例第5回日本小児口腔外科学会(大阪)
1994.04インプラント体の除去を行なった19症例の臨床的検討第48回日本口腔科学会総会(大分)
2020.09回転式骨圧縮器具を使用したソケットリフトの1症例第50回日本口腔インプラント学会記念学術大会

論文掲載

掲載日誌名
1994.11日本口腔外科学会誌1994年 第40巻 第4号
P.543 同胞に見られた鎖骨頭蓋異骨症
2019.11NPO法人埼玉インプラント研究会(SIA)40周年記念誌
P.104~ 上顎洞底下の骨量不足に対してインプラント埋入を行った1症例

稽古に明け暮れた高校時代

“剣道で叩き込まれた”逃げない姿勢

私の「踏ん張り力」の原点は、桐光学園高校の剣道部での3年間にあります。
強豪校の稽古は想像以上に厳しく、稽古中は突き飛ばされ、吹き飛ばされ、終われば血尿が出ることもありました。

何度も「監督を叩きのめしてやる」と思ったくらい(笑)。しかし現実は、3年間で一度も監督に打ち込むことができませんでした。

それでも、「もう打てない…」と思ってからの“あと1本、あと2本”。この積み重ねが、今の私の“粘り”と“丁寧に向き合い続ける姿勢”をつくってくれました。
今では、監督の小山則夫先生に心から感謝しています。

歯科医師を志した理由

祖母の“噛めないつらさ”を見て決めた道

私が歯科医師を目指したのは、祖母が歯で悩んでいた姿を見たことがきっかけです。
「噛めない」ことが生活の質を大きく下げてしまう。
その現実に触れ、歯の治療で人を助けたいと思いました。

専門を磨いた日々「口腔外科での6年間」

365日休みなし。命の現場で学んだ判断力

明海大学歯学部卒業後、私は口腔外科第一講座に進みました。ここでの6年間は、まさに“命に関わる現場”。

舌がんなどの重篤な症例、高齢者の全身管理を伴う治療、緊急の抜歯や外科処置……
365日休みなしで働き続け、毎日が学びの連続でした。

剣道の顧問が口腔外科の医師だったこともあり、「全身をみながら口の中を治せる医師になりたい」という想いを強く持っていました。
この時に身についた判断力は、今の「大学病院へ送るべきか」「院内で治療できるか」を安全に見極める力につながっています。

「より安全で、よりやさしい歯科医療」を目指して

今私が力を入れて学んでいるのは、安全性を極限まで高めるための口腔外科・インプラント技術”です。

患者さんを大学病院へ紹介する基準、院内で対応可能なライン、外科処置のリスクコントロールなど、“患者さんの安全が最優先”という姿勢は、これからも揺らぐことはありません。

技術も設備も、そして医院そのものも、開業から20年以上が経つ今もアップデートを続けています。

地域で、一人ひとりに寄り添う歯科医師でありたい

三井歯科医院を開設したのは平成13年。
羽倉医院の分院としてスタートし、3人の歯科医師で始めたことから“三井歯科”という名前が生まれました。

今では地域の皆さんに支えていただき、「痛みの少ない治療」「歯をできるだけ残す治療」にこだわり続けています。

祖母を思ったあの日から、剣道で鍛えられた高校時代の苦しさも、口腔外科で必死に学んだ6年間も、今すべてが患者さんの笑顔のためにあります。

これからも、一人ひとりの“歯の未来”に本気で向き合う歯科医師であり続けます。

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